40手前で、人生はじめました。

産後うつから回復中。”自分で考えて行動するのが苦手”と、いろんなことから逃げてきた私が、出産を機に”真の自立”を目指し、ゆる楽しい人生を始めた、その記録。

道に迷うとき

もう寝ないとな時間なので、

今日はサラサラと感じたことを。

 

いま私は、

まさに道に迷っている。色んな点において。

 

昔ならそれだけで焦って行く先は真っ暗闇と思い込んでいたけど、自分で目を閉じて両手で耳塞いでたんだなぁと、今となっては気付いたから、まずは目を開いて耳を澄まして感じてみようとしている。

 

あ、今日はデスマス調ではないらしい(^_^;)

 

そんななかで気付いたこと。

 

・空でありたい(仏教用語は感覚でしか捉えてないけど(^_^;))

・無心でひとつひとつに集中して感じたい

・私は何を見るの?感じるの?→それは自分で選べるし決められる→→愛!!!!

・ある、を、見る

・大事にしたいことを大切にしてみる

 

なんてことを考えたら。

「正直、“何やるか”なんて、あんま意味なくね?」と、ノートに書き留めていた。

 

“何やるか”

じゃなくて、

“どうやるか”、“何をこめるか”、“何を伝えるか”、なんじゃない?

 

 

そう思ったら。。。。

なんかすっごくスッキリしてきた。

 

道迷っていてもよし。

迷っているととらえるも、ただ止まって考えて選択してるととらえるもよし。

選択間違えたら戻ればいいし、違う道行くのもいいし。どこに繋がってるのかなーなんて楽しんでみたらいい。

 

どこにいてなにしたっていい

私は私でしかない

そこにいるいまの私が、私。

何をしてる私、なんて必要ない。

 

なんでもいいんだ(笑)

 

おかげで気持ちよく寝れそうです❤️

 

世界は、優しい。

骨にヒビが入り、

息子お迎え時に泣いたときも抱っこできずに、立ち止まりぎゅーってして落ち着いてから帰る日々を送っていた今日。

 

◯◯を買いたい!

とお店の前で大絶叫号泣…。

とても美味しかったから今日も食べたくなったんだね、でもそれは昨日買ったから買わないよ、といくら説明したところで、泣き止むはずもなく…座り込んでひたすら泣き続ける30分。それも駅前の商店街で。

色んな方向から話をしてみたり、ハグしたり、出来るだけのことはしてみたけれど、

泣き止まない。

 

途方に暮れたそのとき。

おばあちゃんが近付いてきて、どうしたの?と息子に話かけてくれました。

つい私が事情を説明したけれど、自分で話できるか息子の反応を待ってからでも良かったなぁと今振り返ると思ったなぁ。。。

 

で、ここからが、本題で。

 

息子に一通り声をかえてくれたあと。

「今いくつ?」と私に聞いてくれました。

3歳半です、と答えたら、

「今は大変な時期よね」と、共感してくれ、

「でもずっとこれが続く訳じゃないからね」

「10年も経てばあの頃は可愛かったなぁと思えるわよ」と、優しい笑顔で話してくれました。

…私の涙腺が決壊。

 

何度もお礼をしたけれど、思い出しても涙が出てくる。

 

嬉しかった。本当に救われた。

優しさに触れられて、ありがたかった。

 

そのあとも、何人かのおばちゃん、おばあちゃんに、声をかけられたけど、みんな優しかった。。。

 

世界は、優しいんだと思う。

 

私も、この優しさやあたたかさを、

循環できる人間になっていきたい。

 

素直に受け取り、次に渡していきたい。

 

おばあちゃんたち、

今日は本当にありがとうございました(泣)

 

 

評論家ぶってんじゃねえよ!

今日はあえて、過激な雰囲気のタイトルですが(笑)、それは、とある方に、ご指摘を頂いたときに私の心に浮かんだ素直な言葉でした。

 

「あんた、何様なの?!」

「正論振りかざして、さぞ気持ち良かったでしょうね?!」

「だから何?!」

…私のなかの怒りの言葉は、収まる気配がなかったのです。

 

ところで、私は何を指摘されたのでしょう?

“その言動は共感とは真逆で、全く話を聞き入れる気がないのが伝わるから、話す気にもなれない”

 

…とてもとても正論。そりゃあなたの言うとおりでしょうね。私が悪いのでしょうよ、と、怒りがぐわっっっと沸いたのです。

 

今までなら、この怒りを、

どうせ私が悪いのだから、この感情を投げてしまっては、喧嘩になる。黙って飲み込むしかない。感じること自体誤りだと、なかったことにしようとしていました。無意識に。

 

今回はそこで思い直して、

この感情に良い悪いはない、ジャッジせず、

とことん私の素直な声を聞こう、

相手に伝えるのはそれからだ、と、

向き合ってみたら。

あんたこそ私の気持ちや状況に共感がないやん!

共感できなくなるくらいの私の背景に思いを馳せたことあるんか?!

評論家気取りで何を偉そうにわかった風なこと言ってんの?

めっっちゃジャッジしてんのはあんたの方やわ!

言いなりになってんのは寧ろあんたの方やろ!

…等々浮かんできて(^_^;)

 

結局、

共感できてないと指摘され、それは確かにその通りだけど、

私がそこで浮かんだのは、今回の言動を取った背景をわかってほしかったということ。

そこにはそれこそ、私なりのポジティブな目的があったのに。それに全く寄り添ってもらえず、バッサリ正論でぶったぎられて悲しくなってしまった、という気持ちでした。

 

そこまでたどり着いたものの、

今までは無視してた気持ちを、相手に伝えるとこまで一気にチャレンジしたので、

「共感できてないと言うけど、それこそ私の気持ちに共感できてないじゃんっっ!」

と震えながら言うので精一杯でした(^_^;)

 

本気で腹が立ったのです。

私のこと全然わかろうとしてないじゃん!と。

 

…長くなりましたが、

今回は凄く貴重な気付きがありました。

 

色んな専門的なスキルや有効な知識を知ってると、つい、周りにいるひとたちをそういうメガネでジャッジして、

コイツだめじゃんできてないじゃん、

あ、この言動は良くないよ、とか、いちいち評価してしまいかねない。

エセ評論家みたいになってしまう危険性があるし、優越感に浸ってひとを下に見たり…(泣)

 

人間関係ってほんとに鏡だから、

私も無意識でやってたんだろうなって思うと、ゾッとしました(泣)

 

こんなんされたら、ほんとに悲しい。

しかも、した側には何の悪意も悪気もない。

正しいことを伝えようとしただけ。

 

今回だって相手には何の気もないと思うのです。私のなかに引っ掛かる要素があって、

自分も同じように“正しいこと伝えなきゃ”としてたから、過剰反応したんだと…あぁ、ほんとにイタい(^_^;)

 

正論ほど時として人をズタズタに引き裂くものはないのかもしれません。

そして相手の気持ちはこれ以上に置いてきぼりなることはないのかも。

 

テクニカルなことに走るほど、

大切なことは、核心は離れてくのだなぁ、

と、改めて感じる今日この頃です。

下手でも不器用でもいいから、私は素直な心の眼で相手を見つめたい、受け止めたい、信じたい。そんな気持ちが日々強くなっています。

 

あとは、怒りを持続させないこと。

素直に出したら流して溜めないこと。

怒りで相手を振り回さないこと。

日々訓練ですね。

 

毎日たくさんのことを学べて、幸せだなー♪

もっと好きなことしよーっと!

 自分のことを大切にしながら、相手も大切にしよう♪

振動。揺れ。響き。波動。

先週、肋骨にひびが入りました。

それからというもの、

くしゃみ、咳をするたびに、

骨に強い痛みが走り、そのあともずーんずーんと響く。。。波動のように。

ゲップすら、響く。。。

 

こんなに、骨って、揺れてたんだなぁ、日常で。

…そこで気付きました。

人の身体って、響き合うようにできてるんだなあって。

 

そう考えたら、

心だって波のように上下して、揺れ動くのは自然な当たり前なこと。

 

揺れても自分の心地好いポジションに戻ってこれればいいだけ。

落ちることも問題ですらない。

 

怒りや哀しみを、

罵詈雑言すら、

思いっきり出して波に流していけばいいだけ。それを悪者にして感じないようにするから抑圧されて、濁ってドロドロになるんだよなぁ(^_^;)

 

怒り感じちゃいけないとか

遠ざけようと抵抗するから苦しいんだよなぁー(笑)

 

試行錯誤中です✨

 

 

痛みから学んだこと…明け方のつぶやき

更に寝れないので諦めて起きた。

 

痛みってさ。

受け入れた方が早いんだなぁと今更知る。

 

この先1ヶ月、

この痛みとともにいないといけないのであり、

逃げようとするだけ無駄で、

痛みに支配されたら生活が立ち行かなくなる、

意識するだけ痛みは増すし、

なんかとっても不幸な気持ちにもなってくる、

悲劇のヒロインになりかねないし、

やんなきゃいけないこと棚上げしたり、

やりたいことやらない言い訳に都合よく使えたりなんかしちゃったりするし(^_^;)

 

痛み感じないように鎮痛剤を、

なんてしてたらさ、

どんだけ薬飲まなきゃいかんの?ってなるし、胃やられるし、

 

ここまで書いてたらさ、

どんだけの痛みと闘ってるんだ?

と思うけど。

 

所詮、肋骨にひび入った程度なんすよ。

場所も場所だけに、

ギプスするわけでもなし、

修復されるの待つしかなし。

そして、常に痛いわけじゃないのだ。

 

肋骨にひび入ったってのは、

レントゲンと超音波で確認した事実。

これをどう感じて受け取って、生活するのは私の主観。

 

なんか変な動きしたり、咳したりくしゃみして痛いのは、その、瞬間の事実。

でもそれが私の生活の全てではないし、私の全てじゃない。

 

痛みに私の感情もアイデンティティも生活も、支配される必要はないわけで。

 

むしろそんなんなってしまう方が、何だかバランスが整わないわけで。

 

今の私は、

痛みとともにある、受け入れる、

けどそれは私の一部でしかない。

 

ってほうが調和してると思う。

 

もちろん、

まだ咳も出るのでいちいち痛いから(笑)

イライラもするけれど。

 

 

これって、

前のブログから続いてるなぁ。

痛み=自己否定してしまってる、レッテル貼ってる自分。

って考えると、

 

肋骨にひび入ったおかげで、

私の自己受容についてが更に体感できた(笑)

…いやいや、

もういいんですよ、あらゆる事象を全て体験して語れるようになろうなんてしてたら、私もうすぐ死にかけてしまいますよ(笑)

 

もうおなかいっぱいです(苦笑)

体験せんでも、、共感できるし、寄り添えますから。

 

自分が体験したことしか語れない、

が完璧主義行き過ぎると、

病気と不幸のオンパレードになりそう?で、

笑えない!(笑)

 ネガティブな出来事から学ぶのは大切だけど、

小さな幸せや、ただそこにあるような体験を今後は積み重ねて、

それを言葉にしていこーうっと♪

 

 ネガティブから学ぶ!!!って

気合い入りすぎてたんだろーな(笑)

 

なんかもう、

この出来事にはどーゆー意味があって、

みたいなのに囚われすぎるの、やめよ!(笑)

首締まるわー

ぜーんぶさらっと感じていい、

味わいたいものだけ深めてもいーのだ。

あらゆるもの深めなきゃって思ってたんだろな(笑)

特にネガティブ方面を(^_^;)

夜中のつぶやき

痛みで目が覚めて眠れない。

こんな時に意識に上がるのは、目下の決断しなければならないこと。

 

心の奥の奥の本音に辿り着こうとするとき、

私の場合、たくさんのひと(仮想)の声が聞こえて来るのだと改めて気付いた。

 

母の価値観。

世間?の価値観。

大人?としての私①の価値観…理想?目標?

子ども?としての私②の価値観

潜在意識的にはどんな解釈ができる?

アドラー的には?

あのひとならどう考える?…等々。

 

そして必ず出てくるのは、

“それは甘えではないか?逃げてはいないか?”という強力な監視フィルター。

 

書いてて気付いたけれど。

私の前提が、①甘えて②逃げてるになってる(^_^;)

 

そしてこんなに情報過多になってたら

解釈過多になってたら

 

頭でっかちすぎて

心の奥底の柔らかい本音に、素直な私なんて、

見えないし触れられないなぁってことに気付く。

 

どうやったら、いいんだろう。

それこそ試行錯誤。

 

今の時点で言えるのは、

甘え、逃げ、依存、不安、恐れ、怠惰、無能、ということに、

もっっのすっごい×印のジャッジをしていて、自分がそれをたくさん持っていて、

そんな自分を最低だと決め付け、空っぽで何にも出来ない能力低い役立たずだと評価していること。

…自分にずいぶん酷いレッテル貼ってること(^_^;)

 

そしてそんな自分を受け入れられずに、そんな自分の現実を見たくなくて、

身動き取れずにいたこと。

 

誰かに、

そんなことないよ、と言ってもらいたい自分もいる。

しかし、それで私のこの根本的な自己否定が終わる訳ではない。また繰り返す。

 

対処法はいくらでもあるのだろう。

とりあえず思い付く限り備忘録。

大好きなひとに言ってもらえたこともあったなぁ。それもメモしとこ。ほんとありがたい。

 

 

【じゅんじゅんの自分のためのトリセツ(笑)】 

注‥アドラー的とか潜在意識的にとかはとりあえず横に置き、思い付くままに順不同。

 

上記のレッテル貼ってる自分すら受け入れて開き直る。

…いいじゃん、もうそれでさ。ポジティブで上塗りして、その私居なかったことにして、存在消すのやめようよ。それも大切な私だよ。仲良くしようよ。居なくならせる必要、あった?自分の半分以上を否定してたら、生きるの苦しくなるの当たり前だ(笑)

 

②そのレッテルや浮かぶネガティブな気持ちをジャッジしない

③ジャッジした自分を裁いて責めない、落ち込まない。浮かんだ言葉や感情は認識するが、そこで終わらせてキレイに流す。

④レッテル貼ってる原因を深掘りしない。多分意味ない不毛な作業だ。恐らくそれこそ現実から逃げるための口実でしかない。

…さらっとそう思うのね、終わり!で、終わらせていいんだよ!!ぜーんぶいちいち分析多角的にしてコンプリートしようとせんでよろし!!そんなことに私の頭脳と体力使う前にやることたくさんあるやろ!(笑)やりたいことも!!!時間の無駄遣いじゃ!(笑)

 

本日の時点ではそんなとこかな。

また浮かんだらブログ書こう。

 

 

しかし。

私は光にだけになろうなろうとしてたんだな。

↑天使にでもなりたかったんかい!(苦笑)

 

光も闇も、陰も陽もバランスでしかなく、

すべてはひとつなのに。

 

強い強い光には、

くっきりとした陰がセットだし、

目をあけることもできないのに。

 

日陰も木陰も必要で。

曇りの日だってあるし、そんな日にも楽しいことも哀しいこともあるし。

雨だって絶対必要で。

自然災害だって、イヤだけど起きるときは起きる。

 

あぁ、私は柔らかい光でありたいな。

闇も陰も知っている、それとともにある光。

曇りも雨もともにある光。

 

私であればいいだけだ。

笑っていたい。泣いてもいい。

一粒、一粒に感謝したり、感じきって丁寧に生きたい。

それをするには、行動、体験することだよね。

そして、大波や高潮になっても、もがかないで身体の力抜いて浮くこと。

 

何があっても大丈夫だし、

私の世界は平和。満ちている。

問題を劇的に落ちて捉えるか、淡々と事実として観るか。問題なのかどうかもわからないしどっちでもいい。

 

 

 ぜーんぶ私の自由。

 

すべてはひとつなんだなぁ。

 

 改めて言葉にできて、

痛みにすら感謝だなぁ。

気付かせてくれてありがとう。

すべてのものごと、ひとたちへ。

 

 

自分を受け入れること①

今日は早速本題から入ります。

 

この二年半あまり、アドラー心理学や、潜在意識のことや、宇宙の法則と言われるもの、占星術など、それぞれの濃淡あれど、自分なりに学んで積み重ねてきたつもり。

 

なのに。。。

こんなに学んだつもりなのに(自分なりにですが)、

どうしてこんなにしんどいことが起きる?

何故まだ母のことで苦しむ?

息子を育てにくいと感じてしまうの?いちいちイライラするの?

そんなことを感じる日々が定期的にやってきていて。

こんな、解決してない自分が、子育て支援とか、何かを発信するとか、していいんだろうか?と悩んでしまう…そんな時間をしばらく過ごしてしまい…ブログも書けずにいました(^_^;)

 

その流れで、年末からずっと体調を崩してしまい…まさに心身ともに落ちて、溺れてもがいていました。

 

そんな中でもここ最近、大好きなひとと、

話をする機会がありました。

ありのままの私を無条件にジャッジせず、

受け止めてくれて、愛されている実感を久々に感じることができた。。。

ずっと向き合えずに逃げていた自分と対面する勇気をもらい、

有ることに目を向けられずにいたこと、

受けとる恐怖を感じていたこと、

自分のアイデンティティで何よりも大切にして生きてきたはずの、鋭い感受性を無かったことにして生きてたことに気付かされ、どれだけ自分を痛め付け責めて苦しめていたかを客観的に視るきっかけとなりました。

 

ドSでドM過ぎ!

完璧主義からいつまでたっても抜けられないし、出来ない自分を誰よりも見たくない自分がいました。

 

潜在意識のこと、学んだのにね(笑)

 

学んだのにこんなんなってる落ちる自分が受け入れられなかった、どうしても。

前提がそうなってるからだとか、色んな解釈できると思うけど。。。今はまずすべてをまるっと白黒つけず良いも悪いも決めずに諦めてそのままを眺めてみようかな、そんな気分です。

 

落ちる=悪、劣、最低って思ってた(笑)

落ちてる自分、ズタズタに責めてた。

ダメ人間、生きてる価値ないわ、と。。

 

全然自分のこと大切にしてない(^_^;)

そりゃ、世界は歪むし毒も心身から出ますな…(笑)

逃げたいだけだったんでは、それすら受け入れられなかったな(^_^;)

 

とにかく、私は全部、全部、

フラットに受け取ってみよう、

味わってみよう、

要らないものは深掘りやめよう。

素直になろう。

 

逃げてもダメでもそれが私(笑)

いちいち評価するのやめよ。

 

…ワケわかんなくてもいいからブログ書こう(笑)