40手前で、人生はじめました。

産後うつから回復中。”自分で考えて行動するのが苦手”と、いろんなことから逃げてきた私が、出産を機に”真の自立”を目指し、ゆる楽しい人生を始めた、その記録。

ひとは、いつか、必ず、死ぬ。

久しぶりのブログ更新。

 

どうにも、どうにも、ならない。

思いっきり、ぶつけてみようと思う。

 

 

私の、青春そのものだった、

憧れの、大好きな、大好きな、大好きな、

 

私にとって、

初めて本気で心からひとを好きになった、

ある意味初恋の相手である、

先輩が、

 

亡くなったと、

当時の親友からメールが届いていたことに、日本代表の試合中に気付いた。

 

意味が、わからなかった。

 

理解できなかった。

 

実感、わくわけもない。

 

ここ数年は会うこともなくて。

 

私の叶わなかった強烈な強烈な、

片想いの思い出として、

心のなかにしまわれていた記憶で。

美しい想い出だった。

 

本当に大好きで、大好きで、 

最初で最後の強烈な叶わぬ恋。

 

もう会えない?

意味がわからなかった。

 

たくさんの思い出が

あのひとの声が、

私を呼ぶ声が、変なあだ名が、

 

出逢ったときのこと、

はにかむ笑顔が、、、、

私に教えてくれた音楽、

一緒に行ったライブ、

 

18切符で京都まで行った思い出も、

合宿での甘酸っぱい想い出も、

二度告白してフラれたあとも、

ずっとずっと変わらずに、

妹のように可愛がってくれたことも、

歌声も、

ギター弾くための伸びた爪も、

一緒に行った夜中の光が丘公園の夏の草の匂いも、

そこで聴いた、彼が歌いギターを弾く

サニーデイ・サービスの曲の数々も、、

一緒に吹いた私のフルートも、

教えてもらった数々の洋楽の曲も、

キリンジを教えてくれたのも、彼だった。

 

酔っ払って、まっ赤になる顔も、

朝までカラオケ行って、そのあとラーメン食べに行ったことも、、、

 

彼が好きで好きで、

同級生に相談していた長電話とか、

 

 

ぶわーーーっと流れてきて、

いてもたってもいられず、

自転車に飛び乗っていた。

 

誰もいない道を、

意味わかんねーーー!!

って絶叫号泣しながら、

ひたすら漕ぎ、漕いでも、漕いでも、

理解出来ず、、

なんなんだよー!!!と

 

叫んでも何もかえってこない。

 

なんとか家に帰ってきたけど、、

 

私は、ほんとに、彼に、

苦しかった上京したてのころを、

助けてもらっていたのだなぁと、

今改めて、思う。

 

過保護過干渉な母から解放されたくて、

不仲な両親取り持つの嫌になって逃げ出すように東京に出てきたものの、

大学の入学式を終え母が帰ったあとのひとりぼっちの私は、

自分ひとりでは何も出来ないことを想い知らされ、

どれだけ両親に守られて育ってきたか、痛いほど知ったあと、行動すること自体が怖くなり、

大学行くのもかなり緊張した日々を送り、

引きこもりになりそうな勢いでした。

 

それをギリギリのところで、

救ってくれたのは、

音楽との出逢いで、サークルの仲間との出逢いで、

私にとって心のそこから本気で好きになった、

初めてのひとが、

可愛がってくれた、サークルの先輩でもある、

彼でした。

 

あのとき、

あんなに彼を大好きにならなかったら、

私は、いまでも生きる糧である音楽に、

のめり込むこともなかっただろうし、

ダメで情けない自分を、

愛あるいじりで、いつも構ってくれて、

私は孤独にならず、可愛がってもらってると、

実感できて、

自分がここにいてもいいと、

思えたのは、彼がいたからだった。

彼は私に安心を与えてくれていた。

 

なんで、ちゃんと、

ありがとうと、言えないまま、

もう、会えないとか、

そんなことに、なってしまうのだろう。

 

男女の恋愛のなかには、

なれなかったけれど、

どれだけ私は、彼の存在に、救われて、

助けられて、甘えていて、

そして、応えてくれていたのか、

 

本当にひとって、

突然、突然、この世界から、

いなくなってしまうんだなと、

 

命って、

いつ終わるかわからないのだなと、

 

どうして、

何度も感じてきたことなのに、

こんな大切なことを、

すぐに忘れてしまうのだろう。

 

愛してるひとに、愛してると心の底から溢れる想いを伝えて、

そのひとたちと笑いあって、

目一杯の想いをこめて、目の前のひとりのひとが幸せであるために役に立てるように仕事して、美味しいもの食べて、ゆったり眠りにつく、それ以外に必要なことなんて、

この世にないのに、

 

なんで余計なことばかりに、

囚われてるんだ!私。。。。。

 

逢いたいひとに逢わず、

行きたいとこに行かず、

やりたいことやらず、

言いたいこと言わず、

 

 

そんなのほんとに、

もっっったいない!!!!!!!

 

もっともっともっと、

生きることを、大切にするってさ、

どういうことなのか、

よく考えた方がいい。

 

 

大好きだったひとに、

ありがとうを言えずに、

お別れしちゃうなんてさ、

 

こんなに哀しいことないよ。

 

もう、声も聴けないとか、

笑い合うこともできないとか、

 

何年も会ってなくても、

こんな想いをするんだもの。

 

そばにいたひとたちや、

家族は、

どんな想いでいるのだろう。

 

きっと想いは繋がってるし、届くし、

次元も時間軸も超えていくのだろうけれど、

 

それでも、それでも、

受け入れられないものは、受け入れられない。

 

大好きだった。

心から大好きだった。

一度フラれても、もう一度伝えてもフラれるとわかっていても、伝えずにいられないくらい、大好きだった。

大好きで、大好きで、

大好きだった。

 

私の青春だった。

 

 

24時

24時

 

 サニーデイ・サービスで、好きなアルバムはたくさんあるけれど、

一番好きなのは、これ。

 

彼との想い出が詰まっているのは、

このアルバム。

 

深夜に、

当時住んでた新井薬師前のマンションまで

車でピックアップされ、

光が丘公園まででかけ、

誰もいない公園で、

一緒に演奏して歌った曲の数々、

生ぬるい風、草の匂い、

夜の道の街灯、

立ち寄ったコンビニ、

 

20年も前のことなのに、

あの夏のこと、

こんなにも鮮明に思い出すんだね。

 

 https://youtu.be/bYNd7llt1xA

 

大好きだった、曲。

 私と、彼の、想い出。

 

どうして、

いつかまた逢えるとか、

そのうちにとか、

 

いつかなんて、ないかもしれないのに。

二度と会えないのかもしれないのに。

 

どうして、

みんな健康に生き続ける前提で、

いまが永遠に続くような錯覚で、

日々やり過ごしてしまうのだろう。

 

ひとは、いつか、必ず、死ぬのに。

 

その、いつか、は、明日かもしれないのに。

 

どれだけ、私、今を大切にせず、

どこを、なにを、生きてたんだろう。

 

こんな形で、気付きたくなかった!!!

 

拗ねてる場合じゃない。

卑屈になってる場合じゃない。

卑下も自虐も謙遜も何の意味もない、誰の役にも立たない。

不安とか自信ないとか苦手とか、

プライドとか、どう見られてるとか、

こう言ったらどう思われるかなとか、

ジャッジとか、条件とか、持ってるものとか、

お金ないとか、

 

ほんと余計なことで、どーーでもいい。

意味ない。

 

目の前に集中する、ってことの意味、

ぜんっっぜん、わかってなかった。。。。

“どうせ私なんて”という名のミイラ

まだいる。

でも外在化できた。

 

拗ねていい。落ちていい。

でも、

そんなことしても、しなくても、

わざわざ悲劇のヒロインしなくても、

私は愛していい、自分を。

 

幸せを、上機嫌を、

発したいのだ。

 

ミイラは、ミイラ取りが、

ミイラにならないように、

うまい付き合い方を教えにきてくれてるのかもしれない。

 

母の怨霊(あくまでも象徴としての言葉で、母=怨霊では、ありません(笑)なんでも劇落ちしそうになると母の育て方に結びつけてやっぱりダメだと自分を責めて逃げようとする思考のパターンのことです)とのお付き合いは、究めて順調で、落ち込みと怨霊は結び付かなくなっているのだから。

 

紐付けしない回路、を、意識すれば太くできるのは、母のことで実証住み。

 

ならば、

どうせ私なんて、も、そうできるはず。

 

 そして、誰かの承認なんてなくたって、

私が私を愛して良いのだ。

 

 

ACIDMAN Λツアー MC

箇条書き。確かこんな風に言ってたな、の、

忘れないためのメモです。

私のだいぶ意訳が入ってます。だいぶ意訳してるかもなので、私の受け取りはこうでしたってことの自己メモです。

 

・1分、1秒を大切に味わって

→あぁー、やっぱりそうだよね、もう過去に囚われるのではなく、今を生きよう、と、改めて思ったのでした。

 

・人は必ず死ぬ。それを忘れてしまって、明日の朝目覚まし時計で起きられると思って寝るけど、決して当たり前のことじゃない

→震災を思い出す。奇跡の連続だってことを、人は忘れてしまう生き物だけど、何度でもACIDMANのライブや曲聴いて思いだそうと誓った。

大木さんのMCも昔みたいに一言一句記憶するのはできなくなったけど、必要なことは全て私の細胞に刻み込まれてるから大丈夫、って言い聞かせる。

 

・生かすも殺すも自分の考え方次第

→ほんとそう。私は、無いもの、欠点に目を向けるより、有るもの、愛したい、好きなところを見つめたい。その回線を太くしよう。

 

・何よりも大切なのは、愛。若い頃は全てに中指立てて、愛なんて歌ってるおじさんおばさんカッコ悪ーってキライだったけど、今ならわかる、おじさんおばさんは、哀しみや苦しみや色んな経験して、それでも笑って、愛を歌ってたって。この歳になって、堂々と愛を歌えるようになったし、これからも歌い続けてく。

 

・自分は全然すごい人間じゃない、ひどいヤツ、歌ってる世界は綺麗事かもしれない、それでも目指す世界は誰にも負けない(自負を語る)!目指していく!!

→あぁ。私が伝えたい、やりたいこと、

ダメ母、テキトーだらしない母でも、私は伝えてもいいんだ!大木さんと同じなんて考えるのは恐れ多いけど、神様みたいな存在の大木さんも、そんな風に思うなら、私も、目指していいんだ(泣)と思って号泣。

 

ダークマターの話。96%は見えないものでできているよ。

 

ACIDMAN Λツアー初日

今日は母の誕生日。

そして、私の敬愛する、ACIDMANのツアーの初日に、ZeppTOKYO まで行ってきました。

今日は完全に、

自分のための備忘録。私の感受性のままに。

 

でもきっと、どこかなにか、響くものがあってほしい。

大木さんの目指す世界は、

私の夢でもあり、体現していきたいものだから。

 

恐ろしいほどの長文になるけど、

読んでくれるひとがいたら、幸せです。

 

 

最新アルバム、Λ。

MCで11枚目のアルバムで、宇宙定数で11を表すΛというタイトルって話を聞き、

うあー!今年は数秘的に、11だし、ACIDMAN流れに乗ってるなーと、今更思った瞬間でした。

 

本題のライブですが。

Λを中心に選曲されたライブでした。

今までも素晴らしいライブばかりだったけれど、これほど、完璧だと思わせてくれるライブは、なかったなぁと思いました。

選曲も、セトリも、MCも。

 

ずっとずっと、生きることと死ぬことと、

宇宙のはじまりと終わりと、命のかけがえのなさ、全ては奇跡の連続で、その一瞬の素晴らしさについて、光について、愛について、歌い続けてた、ACIDMAN

今日は、それが全て、ストレートに、

直球過ぎるほどの直球に、

魂を、揺さぶられ、これ以上ないほどの、

浄化と、全てここにある感覚と、

もう既にここに愛はあって、

満たされているということや、

瞬間を生きる、命の輝きの鮮烈さ、

細胞レベルでの共鳴を、

実感する、命の洗濯をしてきました。

 

最初の、「白い文明」で、

号泣。以下、心に刻まれた歌詞を、

書かせて頂きます。

 

小さな、とても小さな、

数えきれない奇跡で、

僕らここに生まれた

(中略)

君は大丈夫さ、僕ら大丈夫さ、

涙が溢れたなら、

そこからまた始まるさ

君は何億のら僕ら何億もの、

生命の果ての命さ

 

このフレーズで、決壊。

大木さんの声は、繊細なのに、力強くて、

私の芯にダイレクトに、届く。

命を掛けて、命を燃やして、歌ってる、歌。

 

そしてそこからの、

「ミレニアム」。

ずっとずっと、循環していく、繋がってく命のことを歌った曲。

 

形が消えても

忘れはしないだろう

この胸を打つのは

明日の命だ

千年先できっと会おう

必ず君を見つけ出すよ

形を変えて僕らは繋がるだろう

 

…もう、母と、息子のことが、浮かび、

そして、夫の顔が浮かんで、前が見えなくなるぐらい、涙が止まりませんでした。

命って、本当に、

“繋がれていくもの”で、

きっと、今の私も、昔の誰か、昔の私からずっと引き継がれてきたもので、 

あぁ、この愛を、私も、いつか、風になって、子どもたちや、愛する家族の生まれ変わりの、頬を優しく、撫でてあげたい、

そして、こんな曲を産み出した、

大木さんの圧倒的なエネルギーに、

踊ることも出来ず、立ちすくんで、

ただただ、感じることしか出来ずにいました。

 

そこからの、

「新世界」。

今日世界は生まれ変わる

忘れないよ僕ら ここで息をしていた

肺にささるまで  深く息をしていた

今日世界は生まれ変わる

 

何度聴いても、

この部分で、高まって、泣いてしまう。

世界は、何度でも、自分が信じれは、

生まれ変わるのだと。

 

そのあとの曲順は、思い出せず(笑)

 

式日も、

何度聴いても、

震災以降は、ただのセレブレイションな曲ではなく、命や、生まれ変わりや、亡くなったひとの魂との繋がり、生きてる側が信じていれば、感じようとすれば、いつだってその魂と繋がれることができる、そう感じさせてくれる歌だなぁと思うたび、涙が止まらなくなる、そんな曲を、こんなセトリ、完璧過ぎる。

 

あれは春という 鮮やかな光

哀しみを溶かし また出逢えるように

今は遠すぎる互いの日々も

溶け合っていくだろう そのままの声で

(ここで母が浮かんで号泣(^_^;))

 

世界が終わって 全てが消えて

それでも僕ら 繋がってるだろう

そうやって思える 今日の光を

繋いでく 今日の日を

今日の日を

 

…何度聴いても

大木さんの歌詞は、

新しい解釈ができる。感じられる。

 

いま、この瞬間を生きることを、

積み重ね、紡いでいくこと。

私は、そんな、生き方がいい。

改めて、強く感じ、

信じてきたものが、大木さんの歌を通して、

還ってきた気持ちになりました。

 

…止まらないなー(^_^;)

続きはまた書こう(笑)

 

全身全霊で体感するこどもを見て感じたこと

友人家族と、お花見をしてきて、

感じたこと。

 

 

子どもに幸せを求めて与えてもらうのではない。
子どもに幸せを作ってもらうのでもない。 

 

子どもとともに、
そこにある幸せを心と身体目一杯で感じること、

自ら幸せを感じようとすること、
ともに幸せを産み出すこと、

そこにある、に、気付き味わうこと、
無心で夢中で味わうこと、
感謝すること。

 

そんなことを感じた、
サイコーの花見でした。

 

子どもって、
本当に、何をしていても、
どんなに困らされたとしても、
無償の愛を降りそそいでくれる存在なんだなぁと、
改めて思いました。

 

ともに生きる幸せを、
感じさせてくれてありがとう。

人と繋がる喜びを、
思い出させてくれてありがとう。

愛を、体感させてくれて、
本当にありがとう。

 

こんなに、こんなに、
子どもの笑顔に、
胸が締め付けられるほど、
幸せな気持ちになったのは、
初めてかもしれません。

 

あなたの笑顔は、
人を幸せにするよ、
と、2歳前くらいに、息子に向かって言ってたことがあったけれど、
本当に、子どもの笑顔って、素晴らしいなぁと体感させてもらいました。

全身に、嬉しいの感情が走っているのが、
こっちにまで伝わってきて、
あぁ、本当に感情って、伝染するんだなぁ、
心ってひとつになるんだなぁと。。。

 

あぁ、涙が流れてくるほどに、
幸せ。

息子に感動させられっぱなしです。


かといって、
彼が別になにしたって訳じゃないんです。

何にも特別なことはなく、でも当たり前は当たり前じゃなくて、全部が特別でもあると!

 

生きてるだけで、ほんとまるもうけ❤️

さんまさん、スゲーなぁ(笑)

純粋な想いは現実になる…?!

今日は、私の可愛い(アホな?)妄想が、

さっさと現実化した話を書きます。

 

このところ、長谷川博己ブームなのですが、  ぼーっとしてると、博己が私の頭にふわっとやってきてくれます(笑)

あたたかくなってきたので、

あー、実家のそばの一目千本桜の土手を、長谷川博己と腕組んで歩きたいなぁ❤️

風に吹かれて一緒に桜見たいなぁ✨

こんな会話して、笑顔がそばで見られたら幸せ❤️

とか、とある日の午前中、仕事の空き時間にぼーーっと考えていたらですね。。。

午後に席を移動した際、前に座ってた人が飲んでいたおーいお茶が起きっぱなしになってたのですが、パッケージに、一目千本桜が紹介されてたのです!(白石川の堤防のね!私が正に行きたいとこの!)

 

そして、今日はついに、

業務中に同姓同名の方の書類を見かけてしまう事態が発生(笑)

 

うっとりするような妄想はまだ現実になってはいませんが(笑)、

自分がクリアでエネルギーが躍動してるときは特に、現実に還ってくるスピードが早いように思います。

 

自分のエネルギーが澄んでいる、というのは、きっと、

=自分が、好きでいられる自分であるように行動しているとき、

のことなんだろうなぁということを、

今日知ることができたので、

そこについても、また改めてブログ書こうと思います。

 

追伸

一生さまは相変わらず大好きです❤️

ところで、うちの旦那様は強いて言うなら、一生さんよりは長谷川博己寄り。旦那さんが長谷川博己みたいな大人の色気と余裕溢れる男性にきっとなってくんだなぁーとか思うと、長谷川博己に夢中になるのもいいなぁ!と思う今日この頃(笑)←どんだけ都合いい解釈だろうか!!

ちなみに、声だけは、絶対的に一生さま。あの声は唯一無二。低い声がたまりません…。

自分の奥深くにあったもの

備忘録シリーズ。独り言です。

だいぶどろんどろんなので、お時間ある方、もし良かったら、お読みください…。

 

 

私は、アドラーを学んだあとでもまだ、

早くあの人たちに追い付かなきゃ、

何にもない私じゃあの場にいられないとか、

恥ずかしいとか情けないとか、無意識に思っていたことに気付きました。

 

背伸びして背伸びして、自分に無いものばかりに目をやり、埋めようとしてたことを。

 

なんて今の私に、失礼なことをしていたのだろう。

ごめんよ~(泣)

 

素のままの私では、愛されない、認められない、嫌われる、みたいな気持ちが未だに根強くあって、

あの人たちはとてもキラキラしてみえて、スゴく見えて。。。

だから自分もそうならなきゃいけないって無意識で思っていたことにやっっと気が付けました。

何かにならなければならないと、

何かを成さなければならないと…(笑)

 

能力や、才能や、性格のよさや、キャリアや、経験や、お金、環境、人脈、仕事、知恵とか魅力とか…そういう、そのひとが“持ってるもの”で、

そのひとのことを評価してたんですよね(泣)

…書いてて泣けてきます(笑)

まーーだこんなだったのか!私。

 

そうやって自分のこと価値がないって、

未だに劣等感、コンプレックスの塊が心の奥底にまだまだ残ってたんですもの。。。

そしてそれを持ってる素敵なひとを、

羨ましい!!!!!って、

強烈に思っていたんですもの。無意識で。

そしてその強烈な思いをずっと認められずにいたんだなあって、書いてて気がつきました。

 

あぁ。何事も素直に認めて、受け止めることからスタートなんだなぁ。

 

そして、私はやっと、

ここにはない、憧れの目に見える持ち物、を追いかけるよりも、

今ここで大好きなひとたちと、幸せな気持ちでいることを、今この瞬間を最高に楽しむ、enjoyするには、どんなことができるかなぁ?って考えるほうが、私に合ってるし、私らしいんじゃないかなぁ?と、思う一方で、

好きなことはとことん熱量かけたい私の一面も、叶えてあげたいから、世界の美しさやあたたかさを、何かしらの形にして伝えていきたいってことは変わらないなぁ、と思ったのでした。  

 

ていうか、その二つに、”持ち物”は、関係なくね?(笑)

お金がないから出来ないなんて、言い訳だわ!(お金なくても出来ないか考えるのもそうだし、知恵と工夫をすることから逃げてるだけですわ(^_^;))

 

結局、持ってるひとというのは、

それを持つべくして持ってるというか、

努力や工夫や知恵を凝らして持つための行動したから持ってるのであって、

当然なんだよなぁと。。。

やりもしないうちに出来ないとか、私には無理とか言ってる場合じゃないわ😂

と、思ったのでした。。。

 

そうは言っても、根強く残る慣れた回線をOFFにするのはなかなか時間もかかりそう。気長に気楽に取り組んでみようと思います♪

少しずつ、行動しはじめてる、私です。

 

 追伸。

誰もそんな風に私のこと“評価”の目でなんて見てなくて、私のまわりにいて繋がってくれてるひとたちは、あたたかく、私そのものを愛してくれてるなあって改めて思うのです。

感謝いっぱいです。ありがとうございます。

そのまま受け取ろうと思います❤️